ある金持ちの畑が大豊作になりました。彼はすでに金持ちで穀物倉を持っていましたが、大きな収穫を得たので自分自身と相談して「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない」と自分に言いました。
この農夫は隣人、困っている人に与えるよりも、自分のところに全部を蓄えようと考えたのでした。色々考えた末、「こうしよう。私の作物をしまっておく場所がない」「こうしよう。私の倉を壊して、更地にして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はすべてそこにしまっておこう。」と計画を立てたのでした。
そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて。飲んで、楽しめ。』と黄金色の穂を見ながら心で叫んだのでした。
しかし、その時、神はその彼に言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」だれのものになるのか分からない彼に、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と主は言われました。「愚か者」と主が言われた理由は神様の前に富まなかったからでした。短い人生で神を第一にすべきところを自分への蓄えを第一優先にしたのです。人間は自分で生まれる日を決定できないように、死ぬ時も決定できません。人生の主権者は人間ではなく神なのです。神がいのちを与えいのちを取られるお方です。
しかも、この農夫が取り去られるのは「今夜」です。余命1カ月、半年、1年ではないのです。「今夜」なのです。取りさられるのは何でしょうか。いのちと言うより「おまえのたましいは」とあるように「たましい」なのです。「たましい」とは何でしょうか「わがたましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と叫んでいる自分自身、人格なのです。
ある時、人は死を考えますが、多くは身体の死です。聖書は身体とたましいが一体化していると言います。つまり、死とは身体とたましいの死なのです。その時、考えなければならないのは「たましい」あなた自身なのです。この自分自身がこの神に対して富む者か、富まない者かをここで問うています。人間の一生は短く苦しいものです。だからこそ、「神に対して富むもの」となりたいものです。では神に富む者とはどのような意味でしょうか。
キリスト教会で礼拝して神様を心から呼び求めることなのです。
ローマ10:12「ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです」