誰もが欲求があります。食欲、性欲、睡眠欲、安心できる生活欲、つまり衣食住の満足、さらに「愛されたい」「すごいと思われたい」「多くの人から認められたい」と言う承認欲求などがありますが、これらの欲望が度を過ぎると貪欲となります。どれも満足を知らない人間は「もっと、もっと」と求めます。この「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」(ルカ12章15節)と主は勧めました。では何に人は満足するのでしょうか。それは聖書の神、イエスキリストにおいてです。絶対者だからです。
聖書に次の話があります。ある金持ちの畑が大豊作になった。すでに金持ちで穀物倉を持っていましたが、彼は自分自身と相談して自分に言った「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない」この農夫は隣人、困っている人に与えるよりも自分のところに全部を蓄えようと考えました。様々な考えの結果、「こうしよう。私の作物をしまっておく場所がない」「こうしよう。私の倉を壊して、更地にして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はすべてそこにしまっておこう。」と計画を立てました。そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて。飲んで、楽しめ。』」と今後の喜びを心で叫んだのでした。
しかし、神はその彼に言われた。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おもえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」だれのものになるのか分からない。「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と主は言われました。「愚か者」と主が言われた理由は神様の前に富まなかったからでした。短い人生で神を第一にすべきところを自分への蓄えを第一優先にしたのです。人間は自分で生まれる日を決定できないように、基本的には死ぬ時も決定できません。主権者は人間ではなく神なのです。神はいのちを与えいのちを取られるお方です。「主は与え、主は取られる」ヨブ記1:21。と語っています。しかも、この農夫が取り去られるのは「今夜」です。余命1カ月、半年、1年ではないのです。「今夜」なのです。
さらに取りされるのは何でしょうか。いのちと言うより「おまえのたましいは」とあるように「たましい」なのです。「たましい」とは何でしょうか「わがたましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と叫んでいる自分自身、人格なのです。ある時、人は死を考えますが、多くは身体の死です。聖書は身体とたましいは一体化していると言います。つまり、死とは身体とたましいの死なのです。その時、考えなければならないのは「たましい」あなた自身なのです。この自分自身がその神に対して富む者か、富まない者か。をここで問うています。人間の一生は短く苦しい。では神に富む者とはどのような意味でしょうか。神様に霊的財産を積むということです。
具体的にはキリスト教会で礼拝して神様を呼び求めることなのです。
ローマ10:11‐12「この方(イエスキリスト)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と明確に人間の心の満たしを語っています。さらに「ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです」と神様は語っています。
まだクリスチャンでなくても、他宗教に属していても、日曜日にキリスト教会へ行き、神様を礼拝されても構いません。賛美歌を歌い、聖書の説き明かしを聞き、祈り、礼拝後も来られた方々と交わり、恵みを分かち合うとさらに楽しくなります。。私は千葉県にある銚子キリスト教会で牧師をしていました。そこに実生活は大変な老婦人が毎週日曜日に欠かさず礼拝に来ていました。礼拝前には習字で書いた説教題の模造紙を教会看板につけて私に言われました。「先生、頑張ってね」と私を励まし、礼拝に出られ喜びに満ちて自宅へ帰って行かれました。礼拝で聖書からキリストと交わり恵みを受けていたのです。その数か月後、この方は主イエスキリストが与える慰めの世界、天国に行かれました。