富山県新庄町の浄土真宗大谷派正願寺の元住職 亀谷凌雲師(日本基督教団富山新庄教会牧師)のあかし。正願寺の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。第四高等学校 (旧制)で西田幾多郎より、 宗教哲学を学ぶ。東京帝国大学では、井上哲次郎と波多野精一から 学び哲学科卒業。1888年(明治21年)生まれ、1917年29歳に回心。1973年(昭和48年)84歳で召天。
私(入江喜久雄)は浄土真宗の家で生まれ育ち、実母は私が小学校4年生の頃から仏教系の新興宗教に入っていましたが、小学6年の時なくなり一家は悲しみのどん底状態になりました。その後、父は後妻を迎え、兄弟4人と祖母、祖父と合わせて7名の家族に新しい母が家族の一員となり新しい出発をしました。新しい母は福岡県の浄土真宗のお寺で育ち、お寺の幼稚園で働いた方でした。日常、仏壇への供え物の事で祖母と食い違いがあり、家族には冷たい風が吹いていました。私が大学2年で救い主キリストを心に迎え入れ罪から救われ喜びの日々が始まりました。「本当に、主が共におられる」を日々実感し神学校に進み卒業し牧師となり、この本に出会い「そうか、そうだったのか。まことの阿弥陀如来はイエスキリストなのだ」と確信しました。この本と出合ってからは仏教の方々と喜んで話し合いキリストを紹介させていただいています。この本から亀谷凌雲先生の救いを読者の方々に知っていただきたいと考え抜粋し掲載しました。また本をご購入されて読んで下さるのを望んでいます。
「私の求めて止まなかったのは尊い神でもあったが、また真の人間でもあった。温かい人間に会いたかったのだ。真に涙を流し、血をしたたらし、苦しみを、悩みを、悩みのどん底を真に経験している人そのものに会いたかったのだ。それを私はこのキリストに発見したのである。ここにわが永遠の恋人を発見したのである。いまだかって、かかるわが空想ならぬ空想の実体、夢ならぬ夢の実態にあったことがなかった。それに会えたのである。
王宮に悩み、出家し、乞食になった人間釈迦、「祖師は紙衣(かみこ)の90年」と句仏(くぶつ)東本願寺法主をして感泣せしめた。90歳の最期まで非憎非欲の辛労を重ねた人間親鸞に感激しないのか。」と人は言う。もとより感激に絶えない。しかし、キリストには、それとはるかに相違するもののあるのを私は感じたのだ。弥陀と一体なる釈迦、弥陀の顕現なる親鸞ではある。しかし、釈迦も親鸞もついに弥陀の救いを説く教師として終始したのであって、救い主自身ではなく、人間として救いの業を遂げたのではなく、救い主、救いの業をとげたる弥陀を立証する証人としての使命を果たしたのであった。」p61.
「信仰を求める以上、信仰の対象、すなわち浄土真宗の寺院に育った私としては、救い主なる阿弥陀如来の実在を明確に知りたいのだが、心の切実なる要求であり願いであった。
どうも無量寿経・阿弥陀経に示された阿弥陀如来の表現があまりにも広大すぎ、そのありがたいことばに感激にたえないが、史上の事実でないことは明らかであり、その真理は史実を越えたものであるため、比喩的のことばをもって表現されているので、わたしには影を見る心地で直接ご本体に接せられぬうらみが深く、ひたむきにただその御本体に直接面接したくたまらないので、ひたすらこれを求めてきたのであった。ところが、キリストを知りまってからは、かかる問題は完全に解消されたのだ。肉体をもってきたもう方に直接まみえ得て、その御行動、その御業、そのみことば、まったく現実である。真に涙を流し、愛し、苦しみ、血をそそいでいたもうので、これ以上御本体を見たいなどとの心は、つゆだになく、かえって、かほどまでに親しく私ども罪人の間に、人類史の中に来て下さった無限の愛に、まったく心は満たされてしまったのだ。長い、長い間、救い主阿弥陀如来に会いたくてたまらなかったのが、今や、はるか以上に栄光の姿をもって、しかも思もおよばぬ現実そのものとなって私に臨んでくださったのである。これこそ真の如来ではないか。否、これこそが真の神にて在したもうのである。」pp121-122.[ドキュメンタリー] キリストと歩む人生~亀谷凌雲牧師の軌跡~日本CGNTVをYouTubeで見る。 https://youtu.be/noR_-jhkafE?si=xNBlHcqFWojd1jzF
聖書ヘブル人への手紙4:15-16
「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できないかたではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
問5 ひとりより多くの神々がいますか?
答え ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。(1)
(1)申命記6:4。
「聞け、イスラエルヨ。主は私たちの神。主は唯一である。」
エレミヤ10:10。
「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え
その憤りに国々は耐えられない」
「ただひとりのまことの神だけがおられるだけです。他のすべての神々は、どんなに崇高であっても、人間の探求と想像の所産です。」ポール・G・セトル:宇田進編訳

