儒教には『論語』があります。仏教には『法華経』とか、『阿含経』とか、様々なお経があります。仏教のお経とか、儒教の知恵の言葉に語られている教えは、仏陀がどういう生涯を送ったとか、孔子がどういう人生を送ったかという事とは関係なしに、思想として素晴らしい、と言うことができます。釈尊がどういう人生を送ったかと言う事と関係なしに仏教は教えとして成り立つのです。仏教は哲学ですから成り立つのです。儒教にしてもそれは倫理ですから成り立つのです。ところが、それと同じ事がキリスト教信仰について言えるかというと、言えないのです。それは、キリスト教信仰が歴史に基づいているからです。イエスの良い教えを守りましょうというのが、キリスト教信仰の中心ではありません。キリスト教は歴史の上に成り立っているのです。神が万物を創造したとか、イエス・キリストが十字架で死なれたとか、三日目によみがえられたとか、そういった事を基盤にしているのです。歴史から離れてキリスト教信仰はないのです。歴史に関する事は間違いがあってもいい、深い思想があるからいい、そういうふうに聖書を分けて見ることはできません。そのことを皆さんにも理解していただきたいと思います。」(『神の言葉である聖書』内田和彦、近代文芸社、2001年、65-66頁)

 では聖書自身はイエス・キリストのご生涯を客観的にどのように語っているのでしょうか。大伝道者であり宣教者であった使徒パウロは新約聖書 コリント人への手紙 第一15章3-8節で次のように、思想ではなく歴史、事実を語っています。しかも読者、あなたと結び付けてキリストを語っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、またケファに現れ、それから12弟子に現れたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。」

 私は浄土真宗の家系で生まれ育ちましたが、大学2年の時、プロテスタント教会の礼拝でキリストは私自身をむなしさから解放して下さり。創造神を礼拝するものと変えてくださいました。あれから約50年ますますキリスト信仰を確信しています。そのような時、ある本と出合いましたので引用しました。いかがだったでしょうか。あなたの人生はたった一度しかないのです。その人生の土台を何にしますか。キリストを土台にした人生は神の恵みに満たされ本当の自由を体験します。具体的には①罪のゆるし ②死の勝利 ③様々な価値観、劣等感、優越感、あの人に勝った負けた、あの人より自分は上だ、下だという「自分が他人より劣っているという強い引け目や感情」、学歴、職歴コンプレックスから解放され毎日、神の愛、恵みを体験します。失望、深い悲しみからあなたを立ち上がらせて神の恵みの世界を与えて下さるのがイエスキリストなのです。あなたを主イエスキリストが祝福してくださいますように。