マルコ6:45‐52「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」6:50

2024/06/09        佐賀バイブルチャーチ 牧師 入江 喜久雄

私は、2007年5月博多港に、停泊中の大型宣教船ドゥロス号に乗船しました。この船は世界最大の洋上書店 国際親善と文化交流を目的として造られました。船上では一般市民を対象に、文化イベントが開催されていました。モザンビークの乗組員が、確信を持って語った言葉を今も忘れることが出来ません。モザンビークはアフリカ56か国中で最も貧しい国であり、14%の人々がHIVに感染し、内戦で多くの人々が財産を失った国です。彼は言いました。「イエス・キリストがアフリカの希望です。」さらに彼は言いました。「イエス・キリストが世界の希望です。この方以外に希望がない。」あなたには今、希望がありますか。一時的な快楽、お金、地位、身近な人間に希望を持てますか。最後に残る永遠の希望、本質的な希望、それはイエスキリストなのです。

  • キリストは弟子たちの苦しみを知っていた。

「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」6:48

6:41で弟子たちはパンと魚を配りました。主は無理やり12人の弟子たちを舟に乗りこませた。それは弟子たちが疲れていたからでした。主は弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸のベツサイダ(漁村)に先に行かせて、ご自分は後で行く計画でした。また主は何度も群衆を解散させておられました。あまりにも多くの人々がいたからです。男と女も合わせれば1万人はいたでしょう。一方主キリストは弟子たちと別れを告げ、祈りるために山に上られました。

6:48

ガリラヤ湖の上でベツサイダに向かう弟子達12人は船を漕ぎあぐねていました。その中の4人ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師であり、ガリラヤ湖のすみずみまで、知り尽くし、嵐の対策を知っていました。琵琶湖と同じぐらいの大きさのガリラヤ湖で、舟は木の葉のように揺れ動き、船内に水が流入しました。12人は一生懸命にオールを漕ぐが向かい風で前に進まない、それどころか、後ずさりしたのです。救い主キリストは山で祈っておられ、乗船されていません。マルコ4:35では船尾で眠っておられましたが今回はここにはおられません。弟子達はこの時、真っ暗闇の死の恐ろしさ、自分のオールで船を漕ぐだけで、精いっぱい。他の弟子たちを気遣い、愛する余裕はなかったのです。光一つない暗やみで、向かい風、荒れ狂う海、船に流れ込み続ける水、弟子たちは9時間以上「こぎあぐね」ていたのでした。このみ言葉の意味は「苦痛によって試みられる。拷問にかけられ苦しめられる。」です。私たちも宣教に前進しない苦しみがあります。しかしイエスキリストは私たちの苦しみを知っているのです。

 2.キリストは弟子たちを愛した。マルコ6:48b

イエス・キリストは「夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。そばを通り過ぎるおつもりであった。」ここで主は弟子たちが主を呼び求めるのを期待したのです。

しかし」イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげたのです。弟子たちにとって恐怖がさらに増しました。全員がおびえてしまいました。

キリストは荒海の上を歩いていかれました。真夜中、間暗やみ、嵐、その中で方向を間違えることなく、弟子達を助けるため、揺れ動かず、湖に沈むことなく、まっすぐ彼らに近づいていかれました。ただ助けるため、救うため、主は疲労困ぱいの弟子達のところに行きました。ここにはキリストの犠牲愛と全能性が浮き彫りにされています。「湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた」はどのような意味があるのでしょうか。キリストが荒海と言う困難を踏みつける神を示しています。キリストは私たちの困難を踏みつける神様です。

3.キリストは弟子たちをみ言葉と行いで救った。「わたしだ」6:50

大暴雨風の中、人の声がかき消される中で、主イエス様の声だけは響き渡りました。なぜ

でしょうか。神の声だったからです。

「しっかりしなさい。(勇気をもちなさい。)わたしだ、恐れることはない。」

主は、弟子たちの困難のただ中に「わたしが永遠に存在する」ことをいわれました。

私たちには多くの困難がありますが、キリストは私達と共におられる神なのです。「わたしだ」は私たちにも語っている。「わたしだ」。主は信仰で生きるのを願っています。私たちは、目で見える状況を一番に考えて、目に見えないキリストご自身を忘れてしまうことがあります。私たちは疲労困憊で厳しい現実を直視しますが、主は「わたしだ」わたしがいる」とお語り下さっています。このみ言葉は恐れを追い出し平安を与えます。主は私たちに何をするかしないかではなく、キリストへの信仰を求めておられるのです。さらに主は彼らのいる舟に乗りこまれました。主は弟子たちを見つめてさらに近づき舟に乗りこまれた時、風はやんだのです。弟子たちも心中で非常に驚きました。その理由は彼らの心が頑な(不信仰)だったからです。弟子たちに対する主の愛はピリピ2:8で頂点に達した。主は真夜中、湖でこぎあぐねていた弟子たちを助けるために湖の上を歩いていった。さらに主は全人類を救うために「十字架の死にまで従われた」のです。これこそキリストの愛です。キリストは不信仰な私たちを救うために今も私たちを見捨てず近寄ってくださっています。主のみに依り頼んで生きましょう。

結論

イエスは私たちが漕ぎあぐね続けている時、主にさけび続けるのをねがっています。私たちは人、現実から離れて「わたしだ」と言われる主を呼び求めましょう。詩篇86:6-11。主はくすしい活動を行われる方です。このために真理の道を歩み続けましょう。