「わたし(創造神)の目には、あなたは高価で尊い。
わたし(創造神)は、あなたを愛している。」聖書(イザヤ書43章4節)
夜空に満ちている無数のキラキラした星。あの星の中には同じ大きさ、輝きの星は一つもありません。全部違う輝き、大きさです。冬に音も立てずに降る雪。同じ形の結晶の雪はなく、全部違う美しい結晶です。同じ様に、世界に2024年で80億人以上いる人の中で、あなたと同じ姿、同じ人格の人はいません。あなたは、世界中でたった一人しかいない貴重な存在で、神様があなたを創造されたのです。神はあなたをダイヤモンドのように尊く愛しています。人格尊厳の基礎が聖書にあるのです。
しかし一般的に人々は、この様な創造神からの考え方よりも「神はいない」の世界で生きています。進化論における人生の目的は「すべては偶然に発生したのであって目的などはない。人生にも目的などは存在しない」その結果、「人生の目的を見失って失意に沈んでいる人々が多発しています」
具体的には創造神を認めないので、特徴として人と人との比較をします。あなたは、日々、比較の世界で生きていませんか。「僕、私は、あの人より成績がいい、運動ができるからいいんだ。」「僕、私は、あの人より成績が悪い、運動ができないから、だめなんだ。」この考え方は、優越感、劣等感を行ったり来たりするもので、相対世界、無神論的世界観といいます。しかし、
上記の聖書の言葉は、絶対世界、有神論的世界観で、創造神と自分の縦の関係を意味しています。この考えは回りの人々が、自分にどういう評価をしても気になりません。創造神に向かって喜ばれる生き方を求めていきます。また、回りの人々から傷つけられる言葉、行為、無視される態度をとられたとしても、創造神は、永遠に愛を注ぎ続ける方ですからびくともしません。いや、がっかり失望したとしても、神の愛を雨の様に注がれるので、心は神の愛にささえられます。創造論の人生の目的は「創造主の目的にしたがって造られた。創造主に対して責任がある生き方です。」「多くの人々が命の造り主、また救い主キリストを発見して新しい希望を持って生活するようになっています」今、この文章を書いている私自身もかつて神なき望なきの日々でした。大学時代のある日、池袋の交差点で多くの人々の中にいました。その時「自分一人がいなくてもこの社会は回って行くのだ。じゃあ、自分は何のために生まれたのだ」と人生を考えても答えが見つかりませんでした。そんな時、クリスチャンの友人がプロテスタント教会を紹介して下さり、イエスキリストご自身の話を聞き信じ救われ「生きていて良かった」とつくづく思いました。(詳細は牧師のブログ)
聖書の素晴らしい神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。
1.神の愛は「にもかかわらずの愛」
「走れなくなってしまった」「コロナで仕事を失ってしまった」「病気になり家にこもるようになった」「思い通りに行かない」「経済的にやっていけない」そんな時、友人が職場の人がひとり去り一人去っていく。活躍していた時にはあれほど楽しく一緒にいた人がいなくなってしまう。この世界で価値ある時には喜ばれるがそうではなくなった時、置き去りにされてしまう。
ところが聖書の神・イエスキリストは「走れない」「価値がない」にもかかわらず愛するお方なのです。どんな人でも救うために来られ、口先の愛ではなく、実際約2000年前いのちを十字架で捨てた愛で愛され死んで復活され、今もあなたに救いの手を差し伸べお語りになっています。
「人の子(イエス・キリスト)は失われた者を捜して救うために来たのです」ルカ19:10
これがすべての人、あなたへのキリストの愛なのです。ところが多くの人、自分の愛はどうでしょうか。次の2と3ではないでしょうか。
2.もしもの愛
「もしあなたが頑張ったなら」「もし仕事が安定したなら」「もしあなたが良くなったら」愛する人がいます。これは将来にかけるのですが、今、現実、良くない人を愛しません。仮定で、条件付きの愛です。
3.だからの愛
「良くなったのだから」「経済的に余裕があるから」「職歴、学歴がいいから」「頑張っているから」「成績がいいから」「健康だから」愛するというのは、これも条件付きの愛です。
2と3ではなく1こそあなたを生き返らせる無条件の愛です。また今の自分が2と3であってもキリストは「愛される価値のない人間を無限に愛する」のです。そのために神キリストはクリスマスに人間となってあなたのために来られたのです。この神の愛を知り神と人を愛する者となりましょう。ぜひ、教会にいらしてください。日曜礼拝に思い切って出席しましょう。
「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16