読者の皆様、いかがお過ごしでしょうか。以下の文章を箇条書きで記させて頂きます。
1587年秀吉がキリシタン宣教師追放令発布。1614年家康がキリシタン大追放令を発布。
1853年 ペリー総督率いる米国艦隊浦賀に来航
1854年(安政元年)3月日米和親条約 10月日英和親条約締結。米国艦隊浦賀に来航
9月英国東洋艦隊が長崎に来港。長崎の出島にて英国と交渉にあたった人物は長崎奉行の水野忠徳、永井尚志だった。丁度その頃、 佐賀藩家老(大名・小名の家臣の最上位に位し、家臣を統率した者)村田若狭守政矩は長崎に来ていた。
1859年(安政6年)日本開国 プロテスタント宣教師の来日
米国のリギンズとウィリアムズ宣教師(聖公会)が長崎、米国ヘボン宣教師(長老会)が神奈川、S.Rブランン宣教師(米国オランダ改革派)が神奈川、フルベッキ宣教師((米国オランダ改革派。鍋島藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠館で教育にあたった。後に東京大学設立に係わる)村田若狭守の家臣が長崎湾の波間に漂う小さな小包を拾い上げ英語の聖書を発見、その英語の聖書に関心をもった村田若狭守はフルベッキ宣教師の存在を知り、3人の家臣を長崎に送り込みフルベッキに「聖書を教えてほしい」と懇願。聖書の学びは英訳聖書とオランダ語訳聖書と2種類の漢訳聖書をテキストに行われ、約4年間にわたる研修期間を経る。
1866年(慶応2年)
村田若狭守政矩は5月14日に初めてフルベッキ宣教師に会い、語った
「私は長い間、心の中にあなたを知り、語り合えるのを夢見ていた。神の摂理により、今日、実現したのは大変な幸せなことである」聖書を読んだ印象をこう語った。「私が初めて、イエス・キリストの品性と事業を読んだ時の感激は言葉に表せない。かくのごとき人物
を見たことも聞いたことも想像したこともなかった。彼の品性と生きざまに私の心はとりこになった」村田若狭守と実弟の綾部三左衛門は5月20日(主日、夕方)受洗。
藩主 鍋島直大は村田若狭守が家老職を退き引退するという形で二人の受洗を治める。<聖書を読んだサムライたち 守部喜雅著>
一方、フルベッキ宣教師は彼らの回心が真実のものだったことの証拠として「これら二人の武士がその悲惨な過去の生活の暗黒と罪の状態について告白したこと、また救い主を信じて得た平和、救い主を愛し、その救い主の贖罪の愛をうけた者として感ずる歓喜について彼らが告白した」をあげている。<日本プロテスタント教会史(上)小野静雄>
1867年大政奉還 1868年明治維新
1872年村田若狭守召天 長崎のフルベッキ宣教師は宣教師仲間と日本人伝道者を
佐賀へ派遣し宣教を継続した。1873年2月24日キリシタン禁令高札撤去
これを読まれた方へ
この家老が求めた救い主イエスキリストによる救いを体験していただきたいのです。村田若狭守政矩はキリシタン禁令高札があった時代、殺されるかもしれない時代にもかかわらず救い主イエスキリストをなぜ受けいれたのだろうか。なぜ洗礼を受ける前に喜びに満たされていたのだろうか。繰り返しになりますが、先のフルベッキ宣教師の言葉にそのカギがあります。「その悲惨な過去の生活の暗黒と罪の状態について告白したこと、また救い主を信じて得た平和、救い主を愛し、その救い主の贖罪の愛をうけた者として感ずる歓喜」とあるように、使徒パウロが伝えた内容と一致します。
それは「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきた」使徒20:21でした。そこには罪からの救いがあった。「人はいかにして神の前に義と認められるか」また「神の栄光をほめたたえる者となるため」ローマ1:6,12,14に人はどうすれば良いのかの問いに対して洗礼という行いすらも義と認められず神に対する悔い改めと信仰のみによってと使徒20:21と以下の聖書は語ります。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのです」ローマ3:23-24
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ2:8-9
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」イエス・キリスト。マタイ11:28
「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」ヘブル9:14
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(連絡先:sagabiblechurch@gmail.com 佐賀バイブルチャーチ 牧師 入江 喜久雄)