「あった。合格だ。」
受験番号を掲示板やネットで見つけた時は大きな喜びです。希望の学校に入れるからです。ここで言われる希望の意味は学校、会社入学、さらに希望の相手となど「未来への期待や願望を現すもの」です。確かに大きな喜びですが、これらは達成すれば終わる希望、願望で、いつも新しい希望を考えなければなりません。この意味の希望を持てなくなった時、生きがいを失い、さびしい毎日が続くものです。私も聖書と出会う前、何度か経験し、道ばたをがっかりしながら、とぼとぼと歩いたものでした。「つらかったー」
ところが聖書の希望の意味は全く異なり、どんな人でも、どんな時にもなくならない希望なのです。その希望とはなんでしょうか。ずばりイエス・キリストご自身がすべての人の希望なのです。
聖書の中に、祖国を失うという危機的な状況になった南ユダ王国のことが書かれています。その南ユダ王国に対して、当時の預言者エレミヤはエレミヤ書23:6節で「その日、わたしはダビデに一つの若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公正と義を行う。彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『主は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である」と言いました。
また預言者イザヤは「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)と語り、「若枝」とはイエスキリストです。
新約聖書ローマ人への手紙10章11節でハ「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」と語っています。今、あなたはこの希望を持っていますか?また、苦しい時も、いつまでも変わることがない喜びをもたらす希望を持ちたいですか?イエスキリストに希望があります。
もし、よろしかったら以下の祈りを口に出して祈ってみませんか。
「主なる神様。この祈りの時をありがとうございます。また聖書の希望を教えてくださり感謝します。わたしは希望を持てない時があります。どうか希望ご自身であるイエスキリストを信頼して行けますように助けて下さい。イエスキリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン」
アーメンはへブル語で「真実です。本当です」という意味で、この祈りの内容は「私にとって真実です」という意味です。